ブログの紹介と、オススメピックアップ
ブログについて
2017年まで、色々な方向に舵を切りながら飽き性なりにブログを書いてきましたが、
2018年からは「音楽図書室の日常」をつづります。
ハヤシユウについて
磨き上げた天邪鬼と、生まれ持った先天性飽き性を併せ持ち、浮世離れした生活を送っていますが、そろそろ地に足をつけてみたいです。1993年新潟生まれ、新潟育ち、新潟在住。
公式HP(作品のポートフォリオみたいな感じ)
音楽メディアも運営中です
カフェちゃんオリジナルサウンドトラック
2016年夏のコミケで発売。プレスした800枚が早くも廃盤になりかけているCDです。ハヤシユウエディションで限定60枚ほど用意があります。カフェにぴったりなゆるやかBGMもあれば、コミカルで楽しい楽曲もあります。「ポップでかわいい」を散りばめたような癒やしの一枚です。
暗闇に飲まれたい
「ブラックボックス展」が会期を終えた。twitterで主催のなかのひとよ氏をフォローしていたので、その動きがなんだか気になっていた。
会期中はネタバレ禁止で、あることないことSNSで感想がつぶやかれた。「宇宙みたいだった」とか「めちゃつまらん」とか「叫んでる人がいた」とか「不思議な感覚、楽しかった」とか。いったいどんな展示をしたら、そんな不思議な感想が出てくるのか、昨日仕事中にちょっと考えてみた。
いろいろ考えたあげく、たぶんこれは引き算の展示なのだ、何かすごいものが展示してあるのではなく、なにも展示していないんじゃないか、と思った(なかのひとよさんだからというバイアスもはたらいて)。・・・そう思ってネタバレを調べたら本当に何も展示してなかった。ただ、完全なる暗室《ブラックボックス》に入れられて、出てくる、という展示だったらしい。なんだか批判的な意見が多いようだけど、僕は内容を知ってもなお遊びに行ってみたかった。
単純にすごいところは、その何もない展示を、SNSでの拡散や人の口コミをうまくつかってなにかある風にしていたところ、そのようす諸々を含めていいも悪いも含め「流れ」がうまれているところ、そこがまた今っぽくておもしろいところ。
話はブラックボックス展に限ったことではないのだけど、暗闇に飲まれる、という体験はけっこうぞわぞわして、安全が保証されていれば個人的には楽しいと思っている。
体験したことがない人もいるだろうけど、ちゃんとした暗室って、本当にからだが浮いているように感じるというか、もはや自分のからだはそこになくて、意識だけ漂っている感じを味わえるというか。自分の意識だけにフォーカスすることができる。
僕が体験したことのある暗室は、屋内では実は無いかも。だからこそ作られた暗室を体験したい。あのゾワゾワ感をもう一度味わいたい、という欲求がある。
暗闇体験、思い出せるところでは5年前の秋、上越の海岸線だったかな。詳細は省きますけども。とにかく恐怖と、浮遊感、なんです。
暗闇に飲まれることで、自分が自分では(何者でも)なくなり、意思がそこにある、という状態になる。誰も自分を(相手を)認知することはできない。触ることはできるのだけど、もしかしたら触っているのは人ではなく何か別のものかもしれなくて、それを証明するものは何もない。
そんな状態で、エンターテイメントを楽しむと、けっこうマジで楽しい。音楽聞いたり、ダンス踊ったり。オープンでこういうイベントやると誰かに怒られそう(&怪しまれそう)なので、非公式でこっそり友達呼んでいずれ暗室イベントをやりたい。
風邪をこじらせている
最近、自分の好きな友達が書くブログをけっこう楽しみにしていて、僕もちゃんと書きたいなという思いがありつつも、数ヶ月あいだが空いてしまって書き方を忘れた。
書き方、ってブログの使い方とか日本語の使い方のことではなく、たぶんテンポの良さのことなのだけど。いい文章を生み出せるテンポの流れの良さというか、細かいこと機にせずサラサラと書ける、そういうことのは毎日書いてないと失われていくなと思った。
今日はリハビリとして、細かいことを気にせず何か書いてみたい。
そういえば日曜日にキャンドルナイト@与板で歌ってきました。またちゃんとお礼したいのですが関係者の皆さんありがとうございました。外で歌うのはやっぱりめちゃくちゃ気持ちいいです。会場のロケーションも最高でした。
・・・がしかし、実はライブ当日、いや、ライブ2日前から風邪をひいてしまい、ちょっと気だるさのある中でのライブだったので、コンディションが最高とはいいがたいステージだった。喉風邪じゃなかったのがせめてもの救いだったけど。。
風邪を引いてもライブと、その翌日の仕事はがんばろう(その次の日は休みだったので)!と思ってちょっと無理をしてしまったかもしれない。
そんなこんなで、昨日がその休日で一日寝ていたのだけど、だるさがまったく治らず、ついに体温計に手を出した。風邪を引きはじめて5日目。その熱は38.5℃であった。体感的には微熱な感覚だったので、数字を見たら「あ、ヤバい」と思ってしまった。
ちなみにこれまで熱を測ってこなかった理由は、ヤバい数字が出たときに余計元気が無くなりそうだから。その数字に体が順応してしまって、体感が微熱でも39℃あれば39℃のだるさになっていく気がする。そうするとライブや仕事は乗り越えられない。笑
数字がヤバかったので、今日は5年ぶりくらいに内科へ行った(普段は自然治癒に任せているのだけど、時間がかかるから仕事をするとそれも難しい)。もしかしたら「リンパ節結核」かもねと言われた。なんか怖いけど症状がけっこうあてはまる。そもそも1週間近く熱症状が続くって地味にツライ。
3月も喉風邪を2週間くらいこじらせていた。こんな長い期間風邪をこじらせることって無かったのにな、と思ったけど、原因はわかっていて、働いているからだ。学生のときは、風邪引いたら3日間とか平気で休んでたもの。うちの会社はいい人ばかりで、伝えたらけっこうお休みもらえたのだけど、世間的には、ちょっとくらい風邪引いても働きなさい、みたいな風潮あるじゃない。いやいやいや、治すのが先だからねー!
ドラッグストアの風邪薬コーナーとか見てても、朝から晩まで症状を緩和するとか、それ仕事に適応しすぎだからねー!
たぶんこのへんまで文章書いてちょっとずつテンポ戻ってきた。次回へ続く(?)。
「やめる」をもっとカジュアルに
何かを始めるとき、少しの燃料があれば簡単に走り出すことができる。反対に、何かをやめるとき、大きな摩擦を生じるブレーキを必要とする。その摩擦がなんだか気持ち悪くて、あてもなくだらだらと走り続けてしまう。
「やめる」ということのハードルが、今の日本社会ではものすごく大きい。新卒で就職した会社も、一度やめてしまうと再就職が難しくなる。結婚していた夫婦が離婚すると、「バツ」がついてなんだか世間の目が冷たくなる。
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人の考えや価値観なんて、どんどん移り変わっていく。その移り変わりのスピードが早い人もいれば、ゆっくりな人もいるだけ。一生不変な人なんていない。子供の頃はミュウツーになりたかった僕も、今は作曲家を目指しているのだ。
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仕事において、価値観が変わるとどうなるか。そのときベストだと思っていた仕事も、ベストではなくなる。いざ、会社をやめようとすると、「はいったときは意気揚々と抱負を語っていたじゃないか」と咎められる。けれども、それは嘘ではないのだ。そのときは本当にここで頑張りたいと思っていたけど、時の流れとともにその価値観が変わっただけ。だから、逆にその会社で頑張っている今が、嘘をついている状態になる。
この嘘は誰に迷惑をかけているのか?もちろん自分の精神に、だと思う。それがまわりに波及して周りの雰囲気も悪くなったりする。
自分の人生は、いつでも自分が最優先でいいと思う。会社をやめたら誰かに迷惑がかかるとか、そんなことを考えないで、自分に迷惑をかけない道を選びたい。
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とは言いつつも。やめるということのハードルがめちゃくちゃ高い。自分の最大のジャンプ力では超えられないかもしれない。踏切版を使って、やっとこさ飛び越えた後に、着地失敗して骨折するかもしれない。そんなハードルの高さを、超えられる自信がない。
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現状、僕にはどうすることもできないけど、僕は積極的にいろいろなことをやめていきたいと思う。その流れが少しずつ、じわじわと世間ににじみ出て、「ああ、気軽にやめてもいいのかもしれない」と思う人が増えていけば、少しだけ生きやすくなる気がします。
紙と木炭
僕がよく例え話に用いる、紙と木炭の話。
紙は勢い良く、それでいて一瞬で燃え尽きる。
木炭はじんわりと暖かく、火が持続する。
木炭のような人生を歩みたいな、と思っている。一瞬一瞬では、紙のような生き方のほうが楽しいのかもしれないけど、その後に残るのは灰だけ。
かと言って、木炭だけでは火がつかない。だから、そのバランスが大切になる。紙が5%、木炭が95%くらいだろうか。人によって割合は変わってくると思うけど。
WEBのプロモーションでいうと、毎日着実に何か発信をするのが木炭で、バズを狙ったものは紙。木炭を用意した―ちゃんとコンテンツを積み上げた―上で、バズの火をつける、というのはやはり気持ちが良い。それを狙ってできるかどうかは別問題になるので難しいところ。火をつけるのって意外と難しくて、木炭の重ね方(コンテンツの作り方)とか、紙の量(バズを狙う頻度)とか、そもそもの火の付け方(発信の方法)もそうだ。ガスバーナーなのか、チャッカマンなのか、マッチ棒なのか、火おこしからやるのか。
恋愛や遊び、仕事も、すべて木炭に比重をおいた生き方をしたい。細く長く、無理なく、暖かく生きたい。
いっしょにいたいときはいっしょにいる
誰に対しても、フラットに生きようと思っています
たとえば、私自身は音楽制作者なので、音楽プロデューサーに会う!とか、大物アーティストに会う!という状況が訪れたときに、どうしても下からコミュニケーションをとりがちになります。「すごいですね」「さすがですね」というような言葉を多用し、自分だけが相手から何かを学ぼうとしてしまいます。
けれども、最近強く感じていることは、結局のところ人にすごいも何もないんだということ。音楽やマーケティングで劣るところがあったとしても、自分自身の強みは他にいくらでもあります。コミュニケーションが好きだったり、シェアハウスやゲストハウスの場にいる経験が多かったり、地方でできることをたくさん知っていたり。
これは他の人にももちろん当てはまることで、私自身のことをすごいと感じる人にも、私自身から見ればすごいと感じることがたくさんあります。
何がいいたいかと言うと、人それぞれの持つ「すごさ」は比べられないもので、変に卑下しなくてもいいということ。以前、大きな劇団の制作の方とお話する機会があったときに、本人のフラットな姿勢も相まって、友達のように話せて楽しかった記憶があります。このとき、音楽や演劇の話はあまりしていなくて(全体の3割くらい?)、他のトピックを多く話した気がします。
結果的に、そのほうが肩書に縛られない、本当に好きなこと・興味のあることについてより深く話せるような気がします。
自分より経験が浅いからといって、学びを与えるのではなく。
自分より経験が多いからといって、学びを乞うのではなく。
尊敬をもちながらも、友達のように、フラットに、お互いのことを話せる関係を作っていきたいなと思います。